【野生馬式:大学受験の勉強のやり方講座(2)共通テスト必須科目】受験の基礎を考える!

2024年7月16日火曜日

教育 社会問題 大学受験講座

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このブログで提案する学習法は、「地方の進学校ではない高校の高校生が、推薦入学ではなく正面突破で国公立大学を目指す」場合を想定したものである。

しかし、基本的に旧態依然の日本の大学入試システムを考えた場合、進学校に通う高校生であっても十分に対応する。

また私大専願の高校生であっても、十二分に対応するだろう。

【野生馬式:大学受験の勉強のやり方講座(2)共通テスト必須科目】をどう揃える?

国公立大学入試
国公立大学入試では、一次試験で「共通テスト」の得点がカウントされる場合が大半である。

国公立大学の受験を考えるにあたり、最低限必要な「基礎学力」はどの程度のものかを考えてみよう。

ただし、これには単に科目の内容を理解する以前に、高校の「現状」も大きくかかわってくる。

国公立大学受験の基礎学力

最初に、国公立大学受験をするにあたって、「最低限の基礎学力って、なにが必要なのか?」を考えてみたい。

これは、実は非常にシンプルである。


◎「共通テストで5割前後」の解答ができる程度


というのがいわゆる「基礎学力」の一つの目安だ。

国公立大学は、すべての都道府県に設けられている。

これは、日本には「能力に応じて平等に教育を受ける権利」という「いちおう」の理想が日本国憲法に定められており、それを実現するためのものである。

国公立大学は、医学部まで附設された総合大学である場合が多い。

地方の国公立大学であっても、それなりに講座の数は多く、興味関心に基づいて、さまざまな講座を選択できる。

また、日本では大学教育は無償ではないものの、学生の家庭環境が裕福でなくても、ほとんどの国公立大学は家庭状況による学費の一部あるいは全額免除の制度をもっていて、これを利用することで裕福でない家庭の子供でも大学教育が受けられるようになっている。

ただし、国公立大学の場合は多くの場合、「共通テスト」で五教科+最近できた「情報」を一次試験で課す場合がほとんどである。

二次試験は大学、学部によってまちまちである。

しかし、公立大学であるので、どの大学も基本的には文部科学省の管轄下にある。

基本的に「高校」で履修すべき教科を五科目を中心に履修理解しているかどうかを一次試験の「共通テスト」で判断する場合が多い。

東大や京大であろうが、地方の国公立大であろうが、この「共通テスト」をまず五教科+情報でそれなりに解答できなければ二次試験を受けることができないという二段階選抜という方式を日本では長らく採用してきているのだ。

地方の国公立大学では、「共通テスト」の配点が二次試験よりも高いことがままある。

ボーダーラインは大学によってまちまちである。

しかし、多くの国立大学は最低でも「共通テストで5割前後」は解答できなければ入学することは非常に難しい。

東大京大や旧帝大などのいわゆる「難関」大学になると、「共通テスト」以上に思考能力が求められる記述中心の二次試験がさらに課せられる。

私大が、三科目の一発勝負である場合が多いのに対し、国公立の場合はまずは「共通テスト五教科+情報」を全体的に履修する必要があるということである。

そして「五割以上」点数を取るということが、国公立大学に進学するための基礎的な条件なのだ。


共通テストを受ける以前の問題として

さて、共通テストがまずは関門になるとして、これを五割以上まずは取れるようにしていかなければならない。

ところが、これが地方の「非・進学校」あるいは「自称・進学校」だとなかなか難しいのだ。

なぜか?

前回にも書いたが、地方の公立高校の場合、履修科目が揃わない、カリキュラムが終わらないなど、そもそも共通テスト「5科目+情報」が授業では揃わないケースが非常に多いのである。

非常におかしな話であるが、この状況は40年前からほぼ同じなのだ。

にもかかわらず、共通テストはそれぞれの科目については教科書の範囲の履修は終えていることを前提としているのである。

なんだか、矛盾を感じる話であるが、現実なのである。

つまり、「基礎学力」というものを考えるにあたっては、なによりもまずは「共通テストの出題範囲の履修を、終える」ということが優先となってくる。

それも、学校が対応できないのであれば、独学で出題範囲を終える、ということが最優先となってくるのである!


旧態依然

私は率直に言って、こうした現状はおかしいと思う。

最近、全ての高校生に共通テストを受験させるという動きもあるようだ。

だが科目は選択制でもいいとして、「履修が終わらない」状況があるのは現代も同じであるようだ。

38年前と現在が「状況が同じ」というのは異常なことだと思っている。

高校は大学進学だけが目的ではないのはわかる。

しかし、例えばであるが、日本史という科目があるとして、毎年、「江戸時代までしか授業では教えない」としたらどうなのだ?

「毎年」ということになってくると、そもそも教師には科目を最後まで教える気などない、ということになってくるだろう。

それは、日本国憲法の「教育を受ける権利」に抵触するのではないのだろうか?

たまたま、なにかの事情で最後まで終わらないというならば話はまだ分かるが、「毎年」である。

こうした高校教諭は、そもそも教師としての資質が大いに疑われるのではないか?

それが数学も、理科も全てそうだとしたら?

そういうことになってくると、そもそも「高校」が必要なのか不要なのか?という問題になってくる。

共通テストというものを、「高卒資格検定試験」に改めて、高校に行こうが行くまいがこの試験を一定点クリアすれば高卒扱いにしてしまった方がよほどいいのかもしれない。

こういうことを考えて行ったらキリがないが、少なくとも「授業で教える」という原則があるから高校が存在することを考えれば、おかしな話なのは拭い去れない。

でも、事実であるし、これが現実であれば、私たちもそういう「学校教育」を前提で考えねばならない。

叫んでみたところで、当座の現状は変わらない。

今、高校生のみなさんの中にこの矛盾に疑問を抱いている人がいたら、いつか大人になった時に状況を変えてくれ!


どうやって共通テスト「五割」を目指すか?

だが高校の授業があてにならないとしても、なにも難しいことはない。

自分でやっていけばいい。

どうやって?

基本的には、語学(国語、英語)以外は、自分で「教科書」を最後まで自習すればいい。

私も、数学、社会、理科はすべて独学であった。

英語と国語も、独学と言ってもいいかもしれない。

高1の段階で、自分の高校は履修範囲が終わらない高校だ、と知ってしまった。

となると、もはやこんな学校の授業をまともに受けていては話にならない。

一番問題だったのは数学で、これは教科書を独学しようにも練習問題は教科書に解答が記載されていなかった。

これもおかしな話だ。

教師が教えるのが前提なのでそうなっているのであろうが、少なくとも新潟県あたりでは教師は教える義務を果たさない。

教科書には解答をつけるべきである。

教師が無能であっても生徒は優秀な場合は多々あるのだ。

基準を「無能な教師と学校」に合わせるべきではない。

だが、ここでは学校批判を書けばキリがないし、叫んでも改善される可能性もほぼない。

本題はそういう教育制度批判ではなく、どのようにして共通テストを受けるための基礎学力を独学していくか、である。

その話を書いていこう。


【野生馬式:大学受験の勉強のやり方講座(2)共通テスト必須科目】を学習する以前にまず「日本語」を見直そう!

日本語能力がある意味すべての基礎となる!
実は、なにを学ぶにせよ、私たちは「日本語」で考えないとならない。日本語能力がある意味すべての基礎となる!

受験対策をしていくうえで、まずは最初に「絶対的に」欠かせないものがある。

それは、あなたが普段使っている日本語の能力である。

教科書を独学する前に

ところで、独学の方法論を講じる前に、このブログの読者の高校生諸君にぜひやってもらいたいことがある。

それは、国公立大学受験だけでなくて、大学受験を考えているならば、すべての前提となってくる問題だ。

さらには、学校など無関係で、人間世界で生きていく上では非常に重大な影響を及ぼしてくることだ。

簡単なことだが、

・紙の新聞を読むこと

・日記をつけること

この二つである。

どういうことか?

それは、経験的に見て、現代の高校生は大学受験以前に、国語である現代日本語の能力が極めて低い人が多いということである。

具体的に言えば、現代日本語の読み書きレベルがおそろしく低い。

これは、総体的に言えることである。

これには、社会全体的な理由がある。

それは、PC、スマホの普及で、「文字に触れる機会」が著しく減ってきたからである。

本や雑誌が、ネットワークの普及で大幅に読まれなくなっている、という話は聞いたことがあると思う。

でも、その分、ネットを通じて読めるものも増えてきているのだから、同じではないのか?と言う意見もあるだろうが、実際はそうでもない。

インターネット社会では、「文字を読む」よりも「動画を視聴する」ということの方に大幅に比重が置かれるようになってきているのだ。

また、スマホなどを通じて提供されるゲームの分野も、今や多くの中高生を虜にしている。

もちろん、ネットの世界がまったく「文字と縁がないか?」といえば、そうではない。

利用方法によっては、新聞記事も読むことはできる。

wikipediaのようなものを通じて、調べ物をすることもできる。

ブログ記事などを通じて文章を書くことも読むこともできる。

しかし、である。

総体的にそうした「文字を読む、文字を書く」作業を、たとえばスマホでやっている高校生は極めて少数だ。

一方で中高生がyoutubeなどの動画を見ている時間や、ゲームに関わっている時間は非常に長くなってきていて、これにより現代ではすでにテレビ業界が危機的な状況に陥ってきてさえいるほどだ。

昔は、「テレビばかり見ていると頭が悪くなる」と言われたものだが、なぜかといえばテレビも一種の動画であり、「受動的なメディア」だからである。

まあ、頭が悪くなるかどうかはここで議論することではない。

動画好きでゲーム好きでも、本を読むのも大好きな高校生だっているであろう。

だが、全体的な問題としてはネット社会の普及は、言語能力については基本的に悪影響を出している。


「紙の新聞」を毎日読むことの与える効果

話を大学受験に戻すが、よくよく考えてほしいのは、大学受験となると、高校の教科書を理解するにも、問題文を読んで解答するにも、問題の解答解説を理解するにも、日本語の読解能力が必要なのである。

国語だけの問題ではないのである。

数学や理科や社会だって、「言語」で書かれたことを理解していくわけだから、日本語の理解能力がなければ習得はできないのだ。

英語だってそうだ。

バイリンガルでもない限り、私たちが外国語を習得するためにはまずは日本語の能力が前提となる。

最近はやたらと英語が話せればすべてOK、英語はリズムと感覚が身に着けばOKというような言い方がされている。だが、それはウソである。

これは補足がつくべきで、英語で日常的な挨拶はできるとしても、込み入った話の内容を理解するには、まずは日本語の読解力が必要である、ということだ。

例えばの話、新聞の一面や、天声人語などのコラムを理解する日本語能力がない人が、英字新聞を理解できるだろうか?という話である。

日本語の新聞の内容がわからない人が、英語が得意です、といって英字新聞が理解できるのであればほめてあげよう。だが、ネイティブ話者でもない限り、そういう「奇怪な」ことは絶対にありえない。


紙の新聞が一番!

ところで、どうして「新聞」を私が勧めるのか。

どうしてポータルサイトのニュース記事でもいいよ、とは言わないのか。

それは、新聞はあなたの好みにあった記事を並べないからである。

大学受験では、いろいろなジャンルから幅広い英文が出題される。

ネットを乱読しているのと決定的に違うのは、大学受験の問題というのはあなたの好き嫌いとは無関係で出題されるということだ。

さて、「新聞を読む」と私が言うのは、「昔ながらの紙の新聞」を読むことを意味している。

できるならば全体をくまなく読めれば一番いい。

紙の新聞は、ポータルサイトのニュースと違い、あなたの好みに自動的に合わせたりはしない。

新聞を一通り読むということは、あなたの好きな分野も、関心の薄い分野も、いずれも言語として触れていくことになる。

これが、実は大学受験以上に、あなたの言語能力そのものを高めることとなる。

同時に、あなたの一般教養を高めることになる。

もし、部活動やなにかすることがあって忙しい場合は、一面から社説の書かれている面まででもいい。

読みながら、もしわからない用語が出てきたら、それこそスマホの検索エンジンで調べながら読むならばなおのこといい。

私は冗談でこんなことを言っているわけではない。

実際に、新聞を読むように私はまず教え子たちに勧めている。

そして、大学受験に関しても、これは非常に大きな成果を上げてきているのだ。

高校生ならば、新聞を購読していない家庭の子でも、高校の図書室に行けば新聞はある。

図書館や公民館にも新聞は置いてある。

毎日、30分でもいい。

新聞を読み、わからないことを検索エンジンで調べるということをやってみてほしい。

国語の現代文はもちろんのこと、数学でも理科でも社会でも、これは絶対的に理解能力自体が飛躍的に上がっていくのである。

ネットのニュース記事は、どうしても自分の好みに「誘導」されてしまう。

例えばポータルサイトなどは、あなたのアカウントのこれまでの好みに合わせて記事を提供する仕組みが組み込まれている。

youtubeでもそうである。

ポータルサイトなどの場合、あなたの好みに合わせて「おすすめ」されてくるコンテンツを、「クリック」するだけで記事が表示される。

あなたはただ気になったタイトルを「クリック」するだけでよい。そうするごとに、AIはあなたの好みを分析し、あなたの好みに合わせた記事をオンパレードしてくるようになる。

その先には、あなたの好みを分析したバナー広告がオンパレードで用意されている。

つまるところ、ネットというのはフィッシング営業と同じだ。

無料で楽しめます、ということの先には、あなたの性向を分析し、あなたにより効率的な営業を仕掛ける意図が隠されている。

もちろん、そうした事実を知ったうえで、ネットを利用するのはいいだろう。

知ったうえで、調べ物をしていくのは、悪いことではないに決まっている。


検索エンジンで「調べ物」をしてみよう!

新聞を読むにあたり、わからない言葉や概念を検索エンジンで調べるのは、あなたの言語能力を高めるためには大いに役に立つ。

一般的にポータルサイトなどには検索エンジンもついているのだが、いったいどれだけの人が使用しているのだろう?

検索エンジンというものはキーワードの入力で情報を検索して表示を行う。

しかし、あなたがたまたま入れたキーワードでは、あなたが必要とする情報は出てこないかもしれない。

なにかを調べようとする場合、自分の意図する情報にたどり着くためにはキーワードをいろいろと言い換えたり、組み合わせを変えたりする言語能力が必要である。

つまり、検索エンジンも言語能力がなければそもそも使いこなせないツールである。

ネットで調べ物をする、ということは言語の語彙を増やすためにもいい訓練となる。

さらに言い換えや組合せを考えることで言語能力は鍛えられていく。

あなたが検索できることは、あなたの語彙能力や言語能力、さらには思考能力に比例する。

もしあなたが検索エンジンを使用する機会が非常に少ないのだとしたら、あなたは気をつけねばならない。

あなたはおすすめの情報をクリックしているだけで、あなたは実は非常に言語能力が低く、またあなたの言語能力には偏りがあり、理解できるジャンルが非常に狭いかもしれないのだ。

理解できる言語領域を増やすには、あなたの好みに無関係な記事も含めて新聞を読むのが一番いいし、わからない言葉をスマホで検索しながら読むのはなおのこといい、と私が言う理由を、少しでもご理解いただければ幸いである。


日記のすすめ

さて、もう一つ私が推奨するのが「日記」である。

いや、日記というより、「日々の感想」としたほうがいいかもしれない。

言語というのは、「読むことと書くこと」と両面でやる必要がある。

毎日、感じたり考えたりしたことについて「書く」ことを習慣づけた場合、自分が使える語彙が格段に増えていく。

これがまずは国公立大学受験で非常に大きな意味を持つ。

なぜかというと、一般的に国公立大学の入学試験は、共通テスト以外に二次試験があり、これは記述式だからだ。

解答を、日本語で書かねばならないテストである。

あるいはもっとダイレクトに、1200字程度の小論文を課される大学も多い。

記述式問題で言えば、英語の下線部和訳問題なども作文の一種である。

これらは、使える語彙力がどれだけ幅があるかで大きな違いが出てしまう。

東大京大等の難関大学では、「記述」の範囲は非常に大きい。

だが中堅の国公立大学も「記述」は大きな割合を占めている。

ウソだと思うならば、本屋さんで赤本を見てみたらよい。

よく、作文や小論文講座などがあるが、そんなものは実はあまり意味はない。

書けるか書けないかは、普段のあなたの態度次第であり、一番書けるようになるには、自分の興味関心や感想を日々したためるのが最も有効なのである。

日記というか、「日々の感想」を書くには、フツーの大学ノートが一番だ。

これに、その日感じ考えたことを書いてみるのが一番いい。

量は日によってまちまちでも構わない。

しかし、出てこない漢字はスマホで調べる。

自分が使おうとする表現でも、使っていいのか確信が持てないならばスマホで調べる。

ひと月もやれば、あなたの日本語の言語表現能力は、驚くほど上がるはずである。

それだけではない。

他の一見関係がなさそうな科目にも、100%いい影響が出ていくはずだ。

ノートに日々の雑感を書いていくことは、SNS等のいわゆるチャットとはまるで異なる知的作業である。

チャットは、主に用件を伝えあったり、会話の延長線上程度の言語のやり取りが大半を占めている。

しかも絵文字もあるし、写真や動画も送れるから、チャットの場合は言語が不十分でもある程度かまわないのである。

これが、日記や日々の感想となると頭の使う場所が全く異なるのである。

あなたは、自分の手で大学受験の時と同じように筆記用具を用いて「書く」必要がある。

これもSNSとはまるで違う。

ワードプロセッサは、大学受験では使えないのだ。

やってみればすぐわかる。

意外なほど、実際に自分で手書きの文章を書くということは、それが日記の類であっても、全くやった経験がない人には最初はなかなかできないものなのである。

最初はなにをどう書いていいか分からず、呆然とするはずだ。

漢字もなかなか書けないであろう。

でもご安心を。

まずは一か月間、頑張ってやってみてほしい。

最初はなかなか書けないとしても、しばらく続けていけばすぐ慣れてくるはずである。

ごく短い期間でも、高校生のうちは大幅に伸びる時期だ。

最初からノート1ページ書くことはできないかもしれない。

でも、最初はそれでいい。

これはテストでもなんでもない。

気軽に、思いついたことを書いてみよう。

だんだん、書けるようになっていくから!


言葉を制するものはすべてを制する!

ちなみに、上記の訓練は、大学受験において効果を発揮するだけではないのである。

大学に入学した後、授業を理解していくためには当然ながらそれなりの言語理解能力がなければならない。

レポートや提出論文なども大学では多い。

そこでは文章を書くことであなたの考えを表現することをもとめられる。

新聞も、日々の感想も、今後のあなたの人生に対して、全て100%役立っていく。

大学だけではない。

一般社会に生きていく上でも、私たちは日々、多くの「説明」を理解し、さまざまな「書類」を記入処理し、あるいはさまざまな文書をやりとりして行かなくてはならない。

人間社会とは「言語」でできている。

言語能力がなければ、社会人として私たちは存分には生きていけないのである。

さらに、たとえばyoutubeなどの動画を観るにせよ、また字幕付きの映画を観るにせよ、言語の理解がなければ私たちが享受できる世界は大幅に限られてしまうであろう。

「文徳」という言葉があるが、私たち人間は言語でコミュニケーションをとり、気持ちを伝えあっている生物である。

言語能力が豊かであればあるほど、私たちが理解できる世界は広がり、また豊かな感情を表現できるようにもなる。

とりあえずここでは大学受験の話をしていて、その中で言語能力が根本的な基礎としてどれほど重要であるか、の話をしている。

もちろん、本を読むのが好きで普段からけっこう本をたくさん読んでいる高校生もいるだろう。

また私がこんなことを言わなくても、日記を長年継続して書いている人もいるであろう。

そういう人にはあるいは不要な助言である。

しかし、問題児や不登校児を長年にわたり多く世話してきたある「おやじ」が言っていた。

最近は、多くの若者が「失語」に近い状態だ、と。

本を読むなどということはすでに高等なことであって、とても本すら読めるような水準に言語能力がない子が多いのだと。

その「おやじ」は、そういう子供が高校受験をしたい、というのに対しては「私のところにたくさんマンガがあるから、まずはそれを読みなさい」というところから始めるのだそうである。

マンガも文字による言語表現の一種だ。

それにより、世界の様々な状況や、人間世界の様々な機微を理解していくことができるのだ、とその人は言う。

そうした言語および状況に対する理解能力がなければ、高校受験をしようとしても難しいのだという。

私はこのブログの特集では大学受験を対象としている。

大学受験の場合は、まずは新聞と日々の感想である。(いや、マンガだって無意味ではないけどもね。)

普段から本や新聞を読まない、動画好き、ゲーム好きの人で大学受験を志すならば、ぜひ、まずはここからスタートしてみてほしい。

必ず、大学受験もそうだけれど、いろんな意味で役に立つことを私は保証する!


さて、ガイダンスが長くなってきているが、いずれも重要なことを言っているつもりである。

次回以降、英語から、それでは具体的な話に移ろうか。


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