人生100年時代というが、高齢化社会の実像は?

2024年6月28日金曜日

高齢化社会 社会問題

t f B! P L

 高齢者介護を余儀なくされている筆者が、介護の現場で感じてきていることを書いてみます。

人生100年時代が標榜される中、高齢化社会のシビアな現実

人生100年というマーケティングの言葉の裏で、いったいなにが進行しているのか。

在宅介護サバイバル

筆者は、3年ほど前から、高齢の両親の在宅介護を余儀なくされている。
筆者は、3年ほど前から、高齢の両親の在宅介護を余儀なくされている。

2021年の秋、背骨の圧迫骨折と診断されていた母親が、症状をこじらせて歩けなくなり入院した。

同時期より、米寿を迎えようとしていた父親の認知機能低下が深刻化。

物忘れの傾向はこの10年あったのだが、父親は明らかに異常な言動が増え、日常生活に混乱をきたすようになった。

筆者は国際結婚しており、2022年より妻子とともに海外で生活する計画を立てていた。

だが、こうした実家の現状に直面し、身動きがとれなくなってしまったのである。

母親は一カ月の入院を経て、なんとか退院してきたが、足元がおぼつかない。

リハビリをさせないと寝たきりになるのは明白だったため、できる範囲で家事をさせるようにしたのだが、彼女ができることといえばせいぜい食事の支度くらいのことだ。

掃除だの洗濯だの、私がやらねばならぬ局面も多い。

父親に至っては、もともと家事などは自分のやることでないと思っているので、母親がこうした状況でも「お客さん」をやっていてなにもしない。

もっとも、父親の方は頭が明らかにおかしくなってきており、下手に家事のことなど手を出させれば重大な事故が発生しかねない状態にすでになってきている。

この状況だと、いずれ近い将来の「破綻Xデー」がくるのは目に見えている。

施設入居を含めて、段取りを考えねばならないと思い、私はいろいろと調べ始めた。

以下は、私の体験記のようなものである。(現在も継続中、現在進行形。)


介護認定のハードル

こうした場合、いったい、手続き等はどこから始めたらよいのだろう?

新潟県で私が住む市は、すべてが非常に不案内である。

とりあえず、近くに「包括支援センター」なる窓口があり、そこにまずは相談するのが先決だ、という話を近所の友人から聞いた。

行って、状況を話すと、段取りとしては次のようになるという。

包括支援センターに相談

包括支援センター担当者の家庭訪問、状況調査

市の介護認定職員の介護認定調査

結果が出るまで約ひと月!

結果に基づき、ケアマネージャーをつける、つけない、必要なサービスを受ける受けないを本人が判断

???それから、どうなるのだ?

市のホームページには

認定結果が要介護(要支援)となった場合は、介護サービスを利用することができます。

介護サービスを利用するには、ケアマネジャーからケアプランを作成してもらう必要があるため、ご本人やご家族が介護支援事業所などに連絡を取って、ケアマネジャーを選定します。

とだけ、掲載されている。

いずれにせよ、まずは介護認定を受ける必要があるので、包括支援センターの担当者に実家に来てもらった。

担当者は話を聞いていったが、翌週、今度は市の介護認定職員が同行してきて、ほぼ同じ話をまた説明しなければならなかった。

?どうなっている?

よく見ると、「包括支援センター」という組織はこのエリアではJAの経営組織で、民間団体なのだ。

介護認定調査員は市の職員だ。

であれば、最初から市役所に連絡すれば済むことではないのだろうか?

非常に、意味不明の二度手間感がある・・・。

「要支援」「要介護」の認定基準は、非常にわかりづらいものがある。
「要支援」「要介護」の認定基準は、非常にわかりづらいものがある。

さて、その後ひと月以上経過してから「介護認定通知」が来たが、そこには「要介護2」となっていた。

「要介護2」とはなんだ?

意味がよくわからないので、厚生労働省のHPで調べると、次のように記載されている。

「要介護2とは、要介護1の状態に加え、日常生活動作についても部分的な介護が必要となる状態」

要介護1とは、

「要支援状態から、手段的日常生活動作を行う能力がさらに低下し、部分的な介護が必要となる状態」

かなり観念的でさっぱりわからない。

とりあえず、数字が大きいほど介護の必要度合いが高くなるということらしい。

市の職員が置いていった、「介護保険と高齢者保健福祉サービス」という冊子を読んでみた。

すると、

介護サービスの流れ。
介護サービスの流れ。程度によっていろいろと異なり、ケアマネをつけなければなにがなんだかわからない。

こういう感じで、介護認定のグレードに合わせて介護保険を使用して受けられるサービスがありますよ、ということらしい。

ちなみに、最大の線引きは「要介護2」と「要介護3」の間にあるようだ。

特養老人ホームは、「要介護3」以上でなければ入所できない!
特養老人ホームは、「要介護3」以上でなければ入所できない!

「特別養護老人ホーム」への入居ということになると、「要介護3以上」でなければならない。

母親に関していえば、まだトイレまで行ける、食事の支度ができるということなので「要介護2」の「日常的なことに関して部分的な介護が必要な段階」となるらしい。

デイサービスやら訪問介護やらはいろいろと受ける資格があるようだ。

だが、特別養護老人ホームへの入居ということは、現段階では不可である。

それはやむを得ないとしても、いろいろなサービスがあるが、なにがなにやらわけがわからない。

一瞬、私が無知なのか?とも思ったが、そうではないらしい。

基本的に、こんなの見ても、なにがなにやら、それこそ携帯電話のプランがわけわからんのと同じで、一般人には全くわけがわからないであろう。

なので、もし、高齢化で要介護でなにか必要な場合は、「ケアマネージャー」という手続き担当者をつけて、相談のうえで受けるサービスを決めてください、ということらしい。


介護保険はあるがすべて有料

それにしてもである。

サービスは、無料ではない。

介護保険によるサービスは1割負担だがすべて有料。サービスを行うのは認定を受けた事業者である。
介護保険によるサービスは1割負担だがすべて有料。サービスを行うのは認定を受けた事業者である。

すべて有料サービスであり、そこに介護保険が介入するから、負担は1割である。

そして、そういうサービスを提供するのは、すべて業者である。

商売の臭いがぷんぷんする。

なんだか、「中抜き」の温床になりかねないような構造だ・・・。

でもまあ、昔に比べたらまだいいのかもしれない。

私の祖父母が寝たきりになったころ、今から40年ほど前は、こうした介護保険がまだなかったから、金銭負担は非常に大変だったのだ。

病院に入院したとしても、完全看護ではなかったから、付添婦をつけると一日1万円近く支払わなければならなかった。

だから、介護案件が発生した場合は、世話をするためには仕事を辞めなければならなかった。

そうしたことを考えると、構造上はいろいろと問題がありそうな気はするが、介護保険制度自体は評価できる面もある。

だが、わかりづらいなあ・・・。

冊子の最後には、こう書いてある。

介護保険の目的は「自立支援」なんだってさ。
介護保険の目的は「自立支援」なんだってさ。

要は、人生100年時代は、極力自己責任で自立して生きてください、やむを得ない場合のみ介護保険を利用してください、ということか・・・。

まあ介護保険も、今後、高齢者人口がどんどん増えていったら、若い世代だけでは支えきれなくなる。

だから、極力、使わないでください、と言外に釘が刺されているような書き方だ。

しかし、高齢者は自立支援などといっても、身体機能が衰えていくと、「悪化」はしても「改善」はなかなか難しい。

「自立支援」というのは、あてはまるのはせいぜい65歳くらいまでではないだろうか。

こういう書き方をしている裏には、できるだけ介護保険による国庫支出を増やしたくない、という政府の「ご立派な」福祉への姿勢が垣間見えるかのようである。

うがった見方をすれば、いつ、介護保険が破綻するかは知れたものではなく、その時に向けた伏線のようにさえ見える。

介護保険制度も危うさが立ち込めてきているのを感じさせられるような、まったく福祉というよりは商売を強調するような注意書きであるのは、殺伐感がぬぐい切れない。


「人生100年」という標語が独り歩きする日本の高齢化社会

それにしても、人生100年という標語が独り歩きしている感のある現代日本であるが、超高齢化社会と呼ばれる現代日本の実態は、大変な事態に陥っているのではないのだろうか?

ここから先に関しては、まず、お断りしておきたいのは、私は「年寄りは不要だ」というようなことを述べるつもりはない。

「長生きすることが悪だ」とも言わない。

ただ、実際に高齢の両親を介護していると、考えさせられてしまうことが多すぎる。

永遠に生きる?

高齢者介護を余儀なくされるにあたって、様々な問題を感じさせられる毎日である。

最大の問題は、少なくとも私の両親に限っていえば、「自分たちは死ぬはずがない。永遠に生きる」と思っていることだ。

そして介護の局面が発生する可能性をとことん無視して生きてきたし、現在でも自分たちが非常に厄介なことになっているというのにまるで当事者意識がない点だ。

父親は昭和一桁、母親は昭和15年、二人とも戦前生まれだ。

職業は二人とも教師をしていた。

退職教員共済年金で生活し始めてからすでに30年になる。

この人たちは、なにかにつけて「幼い時、家が貧しくて苦労した」という。

特に父親は自分がさも悲劇の主人公だったようなことを言いたがる。

しかし、である。

この人たちは親のコネもあって教師になり、高度経済成長期を「右肩上がり」で生きてきた。

実のところ、壮年期以降は金に不自由することもなく、仕事は内容が伴おうが伴わなかろうが給与をもらえる立場にあった。

退職後は、ヒマと金を持て余し、ありとあらゆる娯楽を享受して生きてきた。

俳句の会、シルバーコーラス、絵画教室、陶芸教室、旅行の会、etc.

忙しい忙しい、といいつつ、主に娯楽に忙しい。

夜になれば夕食後はテレビを何時間も見続けながら、昼寝だか夜寝だか分らぬ惰眠を貪るのが日課である。

そこへ、孫(私の娘)が、「じいちゃん、ばあちゃん、見て!」と自分の描いた絵を持って行ったりすれば、テレビを邪魔されるのがイヤなものだから、

「こらこら、いい子にしなければダメでしょ(いい子?意味不明。自分たちにとって都合のいい子ということか?)。パパに遊んでもらいなさい。あっちにいきなさい!」

と追い返す。

まあ、この人たちについては、私に対しても常にそうだったから、驚くにはあたらない。

「自分たちは永遠に死なない」という前提で生きているものだから、今後自分たちがもし衰えて動けなくなったらどうするか?とか、自分たちの死後、子どもたちが困らないようにしようとか、孫に対して、なにか伝えておきたいとか、なにかしてやりたいとか、そういう考えはまるでなかったし、今もない。

それどころか、父親になにかあった場合のことを考えて、いったい、預金や保険がどうなっているのか、まとめておいてもらいたい、というようなことを私が言えば、

「貴様は!俺にそんなに死んでほしいとでもいうか!」

と憎悪がありったけこもった声で激高するのである。

母親は母親で、

「私たちが病気になったら、金だけ盗んで(盗む?名誉棄損だ!訴えるぞ!)、姨捨山に捨てる気だ!」

などと悪態をつく。

姥捨山?お前らみたいな老人、捨てられるもんなら捨てたいよ。

でも、不本意ながらこうしてあんたらの醜態に付き合ってるじゃねえかよ?口の利き方、気をつけろ!と言いたくなってくる。

死を否定する両親は、先の話をしようとすれば逆ギレし、悪態をつく。
死を否定する両親は、先の話をしようとすれば逆ギレし、悪態をつく。

うちの場合が特殊なのかもしれないが、いやしくも彼らは元教師ではないのか?

この奇妙な考え方は、なんなのだ?

あなたたちは、恥ずかしくはないのか?

私は、もし何かあった場合という前提で話をしているつもりなのだが、このような調子の憎悪のこもった悪態ばかり返ってくるのは心外である。

現在のような段階になるまでに、処理してほしいと私が思うことについては何度穏やかにお願いしてきたことか。

しかしその都度、なにひとつ聞き入れないというか、コミュニケーションが一方的に打ち切られる状態であった。

どうして私の言うことをはねつけるのかといえば、つまりは、彼らは「死の否定」をしているのである。

自分たちの「死」をにおわせるようなことを言うものは、「永遠に生きて娯楽を享受し続ける」という現代の「宗教」の教義に反するから、私は「許されざる者」となるわけだ。

もっとも、彼らには皮肉だが、死は否定などできるものではない。

人間は誰でもいつかは死ぬ日が来る。

そうなったときに、彼らの資産等がどうなっているのか、保険がどうなっているのか、この実家の固定資産税がどうなっているのか、などなど確認しておかないと後で困ると思うから私は尋ねているだけなのだが、このような悪態を毎回示され続けてきたのである。

私は背筋が寒くなり、ある時期からなにも彼らには期待しなくなったし、なにも言わなくなった。

が、昨年以降、二人とも衰えは著しい。

父親に至っては、先週ついに運転免許センターの免許更新に伴う認知機能検査に引っかかった。

そうしたら、逆ギレし、

「これは何かの間違いだ!運転免許センターが集計を間違えているか、別の人の結果をよこしたのだ!それ以外考えられん!」

と運転免許センターに電話して食ってかかったが、運転免許センターからは認知症ではないとする医師の診断書を出すか、もう一度認知機能検査を受け直してパスすれば免許は更新できます、と言われた。

それでなにやら納得して、再検査を受けると言っていたのだが、翌日になると昨日電話した記憶は失われ、またも同じ内容で運転免許センターに電話をしている。

母親が「昨日、電話したじゃないの!」といくら言っても、

「自分は運転免許センターに電話などしていない!」といい、電話をかける・・・。

運転免許センターも、こんな年寄りがしょっちゅう電話してくるならばたまったものではなかろう。

万事このような調子である。

まだ父親が「会長」さんをやっている俳句の会があるが、その事務局長をやっている近所の御父さんから私の携帯に電話がかかってきて、

「あんたの親父さん、このところ、同じことの確認電話を平均して三回、多い時は五回くらいかけてきなさるんだが、どうなんだね?大丈夫なのかね?」

私は、大丈夫じゃないんですが、本人が認めようとしないので非常に困っております、としか応えようがない。


死の否定

「我が国の人口ピラミッド」
総務省統計局webサイトより「我が国の人口ピラミッド」。介護保険も破綻する恐れがあるのがよくわかるほど、人口は先細りしている。

両親を観察していて思うのだが、現代日本においては、先にも述べたように「永遠に生きて娯楽を享受し続ける」ことと「死の否定」は、ある種の宗教となっている。

うちの両親に限った話では無かろう。

あらゆることが、「永遠の命」を前提としているかのような言われ方をしている。

それは、経済がうまくいかず、若者や子供が少ない現代、高齢者にこそ経済的に豊かな富裕層が存在するため、経済界の方が高齢者世代には「永遠に」生きてもらわないと困ることの裏返しでもある。

しかし、そうしたキャッチコピーが独り歩きするようになり、国民の多くが「永遠の生」という妄想を信じ込むような傾向が出てきているとしたら、これはゆゆしき事態である。

私たちの「生」は「死」と切り離すわけにはいかない。

私たちは誰しもがいずれ死ぬ。

だが、私たちは死んでも、私たちは「遺伝子」として子孫の中に生きていくのである。

遺伝子以外にも未来に生きる若い人たちのために残せることやできることはある。

子孫以外の未来世界に生きるものに対しても私たちは貢献することはできるはずだ。

そこに私たちホモ・サピエンスの尊厳はあるのではないのか。

私は人間の尊厳とは、結局のところ、「死」を免れない存在に過ぎない私たちがそうした形で過去とも未来ともつながっていくことでしかあり得ないものではないかと考えている。

ところが、私の両親を見ていると、明らかにそうではない。

共済年金というベーシックインカムを手にし、娯楽に呆ける「極楽浄土」を長年経験してきた結果なのか、それとももともとが見苦しい人たちなのかはわからないが、驚いたことに未来へのつながりをまったく持たない。

(ちなみに、父親は毎朝晩、浄土真宗の同朋奉賛を読むのが日課だ。

さぞ、自分が後ろめたいのか?偽善だ。

自分がそういう行為をすることで「イイ人」だと思いたいわけだ。

自分まで偽っている。

私はそれを見ていて、現代の浄土真宗は悪魔の思想だと思うようになった。

南無阿弥陀仏は、すでに悪質な「免罪符」と化し、歎異抄にある親鸞の思想とは程遠い。

「虚無」を蔓延させるのは、すでにまっとうな宗教とは言えない!)

自分たちの生を、未来世界に貢献するために最後まで使おう、という意識は皆無だ。

畢竟、自分たちの娯楽に満ちた「極楽浄土」生活を永遠に維持することにしか生の目的がない。

なぜそうなのかといえば、「死を否定」しているからである

永遠に生き続けて、娯楽を享受し続けるという「虚無」がこの「宗教」の教義である以上、それは当然のことだ。

では、彼らが今現在、「生きて」いるのか?といえば、それもすでによくわからない。

父親は最近では明らかに正気ではなく、次第にテレビの内容もよくわからなくなってきている。

血圧が160くらいあると、「弱った、脳梗塞が起こる!」などとわめきちらし、5分おきに血圧計を測り続ける。

なんと、二時間以上測り続けるのである。

入院して心電図を貼り付けてもらった方が早いんではないのか?

脳病院にて・・・。

そんなに血圧を測り続けても意味ないのでは?などといえば、「俺に死んでほしいか!」と悪態が出る。

死を否定するわりには、すさまじいまでの死への恐怖である。

いや、永遠の生へのパラノイア的執着というべきか。

「永遠の命」を信じ込んでいる彼らからすれば、少しでも「死」の影が生活に入り込むことは許されないタブーなのだ。

結局、医師からはこういう時のためにすでに抗うつ剤が出されていて、抗うつ剤エチゾラムを服用するとパニックは治まる。(もはや喜劇。)

母親は、歩行がすでに困難なのに加え、最近では死が不安で不安でたまらない。

死の否定をしてきているわり死ぬのが不安だというのも矛盾だらけなのだが、死ぬのが不安であるばかりか、夫である私の父親が認知症が悪化してきていることに対し面倒くさくてたまらないので、すなわち生きるのも不安なのである。

この状況は、「永遠に生き続けて娯楽を享受し続ける」という彼らのテーゼにはすでに反している。

だが「自分は衰えて死んでいく」という現実を受け入れるのを拒んでいるものだから、自己矛盾の中で自分でストレスをためて自滅し始めている。

数年前から、自己矛盾に耐え切れず母は自己崩壊を見せるようになり、不安で「息が苦しい」と言い出し、近所の医師からこれまた抗うつ剤エチゾラムを処方されて飲んでいるが、すでにオーバードーズ気味になっており、禁断症状ですべて投げやりになり、自分の思い通りにならないと「私なんかさっさと死ねってお前は思ってるんだろ!」などと介護する私に対して暴言をまき散らす。(すでにゾンビのようなものだ。)

「不安神経症」ということで抗うつ剤の種類や量が増えて、先の三月には、抗うつ剤のミックス服用とオーバードーズで立ち上がれなくなり、入院した。

「脳梗塞になる、弱った弱った」だの、「不安で胸が苦しい」だのとわめき散らす余力があるのならば、かねてから私が言っている今後についての提案のことでも少しは真面目に考えてもらいたいところだ。

肝心な「生」に対して彼らはきわめて不真面目なのである。

が、もうこの状態では「永遠に生きる」という命題の元、不安に絶えられずすでに「正体」がないのであるから、未来の話などなにひとつできない。

これは、究極の利己主義以外の何事でもないのではないのか?

結局、この人たちは実家の処理のことも、孫のことも、なにひとつタッチすることなく、極楽浄土生活の総決算として過去とも未来ともつながりを持たない状態で、自分らの娯楽追及の結果、荒廃した状況を未来に生きるものに無責任に丸投げしつつ、否定しているはずの「死」を迎えるのだろうが、そこに至るまでなにが起こってくるかを考える時、エチゾラムでも飲みたいのはむしろ私の方である。

(エチゾラム、別名デバス。

死生観なき日本の虚無を麻痺させるかのような抗うつ剤であり、これが大量に依存症を産んでいることは、まさに日本の虚無の核心である。)

死生観を持たない大量の老人を抱える日本。

私の両親に起こっていることは、あたかも現代日本の高齢化社会の縮図のように感じられる。

こうした大量の「死を否定する」老人たちの極楽浄土生活を維持するために、若い世代が犠牲になるのか?などと思うといたたまれなくなる。

日本のこうした状況は、正確に言えば個人主義とは程遠い、程度の低い利己主義が、さもエラソーに巷で蔓延していることの総決算に他ならない。

人生100年時代などという、保険商品の売り込みのようなキャッチフレーズは誰が言い出したのかは知れない(おそらく広告代理店であろう)が、心臓が停止するまで100年かかるとしても、そこへ至るまでの惨状が私の両親のようであるならば、例え100年生きたところで、それは生きていると言えるのであろうか?

それは未来世界にゴミを押し付けつつ享楽に明け暮れていく無責任な利己主義を100年生きる状態まで「延命」するという虚無思想に他なるまい。

死生観

右肩上がりの功利主義
右肩上がりの功利主義しか追及してこなかったツケは、死生観を持たない大量の高齢者を中心とする高齢化社会において、深刻な様相を呈し始めてきている。

私たち日本人は、戦後の高度経済成長期を通じ、極めて功利主義的な思考回路を育んできた。

「右肩上がりの経済成長」という名のもとに、マイホーム神話を作り、つながりを極力排除して娯楽、エンターテインメントを享受するという特殊な日本式個人主義を至上価値としてやってきた。

受験戦争はなるべく苦労をせずに高い賃金と社会的な地位を享受できるようになるためのものだったし、こういう価値観は教育の現場でも徹底されてきている。

(そういうことを教えてきたのが私の両親たち「教師」だ。)

右肩上がりの成長がなぜ必要なのか?といえば、私の両親のように「永遠に死なず、永遠に極楽浄土に生き続ける」という目的のためである。

「誰でも死ぬ」というシンプルな事実を考えることなど、うざったくキモイこととされて久しい。

次第に減ってきてはいる私の両親の世代でさえそうなのだから、その少し下の団塊世代はなおのことそうであろう。

さらにはバブルの繁栄期に青春時代を過ごした私たちアラフィフ世代はさらにそうかもしれない。

むろん、そうではない人たちだっているであろうことは疑わない。

だがもし、人生100年ということが、未来世界とのつながりを持たない大量の高齢者の極楽浄土思想を意味するのだとすれば、日本という地域はすでに終わっている

減少する一方の出生率。

未来に対する人口は先細りしている一方で、未来への貢献などどうでもいいとするうちの両親のような高齢者の集団の割合だけが上がっているとすれば、それは日本では老人が子供を食ってしまっているのである。

他人事ではない。

ただ、こうした高齢者介護の現実を観ていると、自分はそうはなりたくないものだ、と思わざるを得ない。

「死生観」という人間の根本的な生と死を考える倫理観が欠落していれば、人間は誰しも私の両親のようになっていくのではないか。

私はこの三年余りで、大きく死生観が変化しつつある。

両親への反面教師も含め、そのようにはならない生き方をしたいと思うのであれば、「明日、死んでもいいように毎日を生きよう」と思えてきてならないのだ。

だが、もし明日死ぬとした場合でも、私はすでに自分の娯楽だけを徹底したい、とは思わない。

楽しく暮らせりゃすべて善、という「極楽浄土思想」はやめようと。

未来との繋がりを大事にしたい、と両親を見ていると思わざるを得なくなる。

私は、程度の低い娯楽はもうどうでもいい。

私は、尊厳が欲しいのだ。

だから、不本意でも介護や実家の整理を現在行っている。

私は、両親が結果として無責任に私に押し付けようとしている負の遺産を、娘のところにまで及ばせることを望まないからだ。

知り合いの子供に大学受験指導ボランティアをしたりするのも、残された「生」は未来のために使いたいと思うようになってきたからだ。

生命は、そうした目的に対して使用されるべき道具なのではないのか?

人生100年に象徴される長寿が、単なる「延命」なのか、社会や未来への貢献性のために「養命」することなのか、といったあたりが今後は問われる時代となるだろう。

またそういう方向性が出てこなければ、人生100年などと産業界がバカの一つ覚えで言ったところで、それは娯楽に飢えた生産性のないネズミの大群を延命するだけのこととなり、ネズミたちはいずれ崖から転落して消滅することになる。(ドストエフスキーの「悪霊」の世界そのもの。)

そこに、人間的な尊厳はない。

尊厳を持って生きたいものだ。

あるいは、尊厳なき日本を作ることに多大なる貢献してきた元教師の両親が、最後に私に反面教師として教えてくれる最大のことがこの点であるのかもしれない。


※この問題は、まだ私個人にとって現在進行形の高齢者介護と密接に結びついている。

今後折に触れていろいろ書いていきたいと思っている。


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