危機に瀕した合計特殊出生率と結婚、出産、子育て、家庭、教育、そして・・・

2024年6月6日木曜日

教育 社会問題

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日本の合計特殊出生率が、過去最低を記録した。

その背景や原因を考えてみます。

結婚、出産、子育て、家庭、教育の「崩壊」を示す危機的な出生率!

衝撃的な最新の合計特殊出生率

こんなニュースを目にした。

時事通信の報道である。 

出生率、過去最低1.20 

8年連続低下、東京は初の1割れ―人口減少幅は最大・厚労省

厚生労働省は5日、2023年の人口動態統計を公表した。1人の女性が生涯に産む子どもの推計人数を示す合計特殊出生率は1.20で、22年の1.26を下回り、過去最低を更新した。低下は8年連続。東京は0.99で、全国で初めて1を割り込んだ。

年間出生数は8年連続減の72万7277人で、同様に過去最少を更新。出生数から死亡数を引いた人口自然減は過去最大の84万8659人で、少子化と人口減少に歯止めがかからない現状が浮き彫りになった。

 厚労省の担当者は「経済的な不安定さ、仕事と子育ての両立の難しさなど、さまざまな要因が複雑に絡み合っている」と背景を分析。コロナ禍の影響も少なからずあったとして、「少子化の進行は危機的な状況にある」との認識を示した。

 都道府県別の出生率は沖縄の1.60が最も高く、宮崎と長崎が1.49で続いた。最低は東京で、次いで北海道1.06、宮城1.07だった。

 年間出生数は前年から4万3482人減った。第2次ベビーブーム(1971~74年)以降、減少傾向が続いており、15年に一時増加したが、翌16年には100万人を割り込んだ。その後は19年に90万人、22年に80万人を下回り、70万人割れが目前に迫った。

 晩婚・晩産化の傾向は変わらず、平均初婚年齢は男性が31.1歳、女性が29.7歳でいずれも前年と同じだった。第1子出生時の母親の平均年齢は31.0歳と2年ぶりに上昇した。

 婚姻数は47万4717組で、前年比3万213組減少。一方、離婚数は18万3808組で、同4709組増加した。

 死亡数は前年比6886人増加し、157万5936人だった。新型コロナに感染して死亡したと報告された人は3万8080人で、死亡総数に占める割合は2.4%だった。

(時事通信 2024年6月5日)


こんなことは、今言われ始めたことではない。すでに前世紀から問題にはなってきている。

だが、まるで歯止めがかからない。

合計特殊出生率と出生・婚姻数の推移(時事通信社)
合計特殊出生率と出生・婚姻数の推移(時事通信社)

そればかりか、時事通信が同時に発表しているこのグラフからすると、何と言っても婚姻の件数も過去最低なのである。この分では出生数が年間50万人を下回るまであと数年である。

一方で、日本の死亡者数を考えると、こちらは過去最高の約157万人となっている。

厚生労働省「令和4年(2022)人口動態統計月報年計(概数)の概況」より
厚生労働省「令和4年(2022)人口動態統計月報年計(概数)の概況」より

日本ではこの先、戦後のベビーブーム世代、そして現在アラフィフの第二次ベビーブーム世代が急激に減少していく時代を迎えようとしている。

この先、現在は約157万人の死亡数は、200万人、ともすれば300万人となっていく可能性もある。

仮に、死亡数が400万人近くなり、出生数が40万人を下回れば、日本の人口は3年で1000万人づつ「自然減」で減っていく可能性もあるということだ。15年程度で人口が5000万人減少するという可能性すらある。

そこまで行かなかったとしても、大幅な人口減少が起こるのは確実であり、日本は多くの市町村が存続危機に陥り、飲食店は次々倒産し、チェーンストアやフランチャイズが大幅に縮小し、サービス業そのものが成立しなくなりそうな時代を迎えつつある。


経済不安だけが原因ではない!

頭のさぞいい官僚や政府のブレインがこうした状況に対しなにを考えているかは私にはよくわからない。

しかし、盛んに言われているのは、

「経済不安で子供を育てられない」

「子育てへの支援が薄い」

「雇用現場での子育て支援感覚がない」

など、原因を経済の悪化や、政策の不備、雇用現場の無理解に当てる意見が大半だ。そうしたことは、この出生率の原因でないとは言わない。だが、もっと深刻な背景があるのではないのだろうか?


見合い結婚の減少と少子化

内閣府が出している統計で、「恋愛結婚・見合い結婚の割合推移」という面白い統計がある。

「内閣府男女共同参画局」webサイトより抜粋
「内閣府男女共同参画局」webサイトより抜粋

この統計を見ると、いわゆる少子化の進行は、「見合い結婚の割合低下」とかなり相関していることが見て取れる。

そう、日本という国は、長らく、婚姻の主流は見合い結婚だったのだ。昭和40年の段階でも、まだ見合い結婚の方が恋愛結婚を上回っている。

統計上、恋愛結婚が見合い結婚を上回ったのが昭和44年のことだ。それ以降、見合い結婚の割合は低下の一途をたどって行って、現在では5%あるかないか。

これが意味することを考えてみるのは重要だ。

背景にあるのは、「家」というものに対する社会の感覚の変化である。

日本は長らく「家」の存続ということが社会通念となっていた。

これは、家父長制と「家」単位での職業世襲という日本独特の社会制度と関係がある。

江戸時代に定められたこの制度は、男子がいなければ原則「家」と「職業世襲」ができない、というものだ。男子がいない場合は婿養子を迎えることができたが、その場合は直系の女子がいなければならなかった。だから、子孫を残す、子供を増やすということは非常に重大な問題だった。

子孫を残すためには、婚姻がなければならない。子供を結婚「させる」ということは、「家」と「世襲の仕事」を存続させていくためには必要不可欠だった。だから、「自由恋愛」などと言っておれなかった。自由恋愛が不得手であっても、結婚「させてしまう」。

この考え方は、戦前までは非常に根強く日本の婚姻を支配していた。

子供が適齢期になれば、親が婚姻を決めて、子供は問答無用で親が決めた相手と結婚するというのがずいぶん長い間、日本社会のスタンダードだったのである。若いうちに結婚させなければ子供をたくさん作れない。できるだけ男子を得るためには、子供が多い方が確率は高くなる。

かつての日本で見合い結婚が婚姻の主流を占めていたのは、こうした日本独特の社会の事情からきている。子供が適齢期になれば親の元にあちこちから縁談が舞い込んできて、ほぼ同調圧力としてそれは機能した。

日本人のメンタリティの根本には、長らくこうした価値観と言おうか、「概念」と言おうか、「結婚は、他者がもたらしてくれるもの、自分はそれに従うのが当たり前」という空気が今もあるのだと思われる。


恋愛解禁、そして・・・

長らく続いたこうした状況が、「自由恋愛で相手を見つける」ことに転換したのは、先ほどのグラフだけを見たら昭和44年(1969年)のことである。

「家を存続させる」とか、「家庭を持ち、子供を産み育てる」といった概念はまだ残っていたし、実際、昭和44年の段階でも結婚の半数はまだ「見合い」である。が、少し空気が変わってきて、「自由に愛し合う相手を見つける」ことに若者たち含めた国民の価値観が移行して行ったと見ることができる。

若者は結婚適齢期になれば、男も女も相手を探さなければならない時代になったのである。

だが、合計特殊出生率が明らかに下がり始めたのは、この頃からだ。

いろいろとこれに相関した社会状況の変化は考えられる。

職業の世襲概念が薄らいできたことや、マイホーム神話が生まれ「家」の存続という価値観がなくなったこともあるだろう。生活物価が高くなり、多くの子供を育てる余裕がなくなったことも関係するだろう。

しかし、結婚する男女の割合が結婚しない男女よりも圧倒的に多数派であれば、合計特殊出生率が下がったとしても、どこかで下げ止まりの傾向が出てくるはずだ。

下げ止まらないばかりか、ここへ来てもはや少子化どころか国が維持できるかどうかが微妙になっているのが日本なのである。

さらに決定的な異変が起こり始めている。


結婚しない人が急増


総務省統計局webサイトより
総務省統計局webサイトより「20歳代後半から30歳代にかけて未婚率は男女とも大きく上昇」

合計特殊出生率云々以前に、男女が結婚しなければ子供は生まれない。未婚でも生まれはするが、社会として子供が増えていくためには、「結婚する」男女が、「結婚しない」男女よりも圧倒的に多数派でなければならない。

「結婚しない男女の割合」を示すこの統計は、実に重大なことを教えてくれている。

自由恋愛が婚姻の基本原則となった日本社会では、「非常に多くの男女が自分で結婚相手を見つけられない」、という「シンプルな事実」をこの統計は示している。

別な見方をすれば「見合い結婚の割合」よりも「自由恋愛による結婚の割合」が高くなったのは、自由恋愛で結婚している人間の絶対数が増えたわけでは「まったく」なくて、単純に「見合い結婚」という文化が消えただけに過ぎない、とさえ言えそうだ。

そして、これまで見合いで結婚していた「はず」の人間のうち、非常に多くが自分で相手が見つけられず、未婚となってしまっていると考えることができるかもしれない。なんということだろう。日本人は、実は自由恋愛というのが不得手なのかもしれない。


彼氏、彼女が「いない」のが現代のスタンダード

現代においては、自由恋愛という結婚原則さえも、非常に深刻な様相を呈している。

株式会社リクルート(本社:東京都千代田区 代表取締役社長:北村 吉弘、以下リクルート)が運営する『リクルートブライダル総研』では、恋愛、結婚の実態について詳細を把握するため、「恋愛・結婚調査2023」を実施。

このような結果が出ている。一部を抜粋すると、

20~40代未婚者のうち、恋人がいる人は29.7%。

交際経験のない20代男性は46.0%、女性は29.8%でそれぞれ前回比増加。

恋愛観を見ると、「恋愛するなら結婚のため」という価値観が

20代男女の中で広まっている

今や、彼氏、彼女がいないのはすでにスタンダードなことなのだ。

こうした傾向に関しては、すぐに経済的な問題や国のバックアップ不備が取りざたされるが、「交際経験がない」という現象については、学歴や年収など実はあまり関係がない。「交際経験のない20代男性は46.0%」だが、有名大学卒で大手企業に勤務していても「交際経験がない」という人たちは多数いる。

また、恋愛や結婚を「コストがかかる」という表現で表す風潮が、だいぶ前から出てきている。なんだか現代の若者たちは、非常に恋愛も結婚もプラスティックに捉えているのだ。無機的ですらある。

要するに、男と女がペアとなり子育てをするということになんの魅力も感じない男女が急増してきているということだ。

異性に関心がない人間が増えていけば、それこそ見合い結婚で強制でもしなければ子供は生まれないだろう。


さらに予測される未来は?

さらに、ここで合計特殊出生率とは一見無関係そうに見える話をしよう。

が、今後の人口減少問題に対して重大な影を落とす話である。

「不登校」のことだ。

昨年の段階で、文部科学省は全国の小中高で「不登校」の数が約30万人という強烈な統計を発表している。

文部科学省「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より
文部科学省「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」より

この数は、ここ数年で激増している。しかし、この約30万人という数字は、公式に把握されているだけの数で、もっと多いだろう。

これも、学校教育の在り方の問題や、いじめの問題にすぐ転嫁されてしまいがちだ。もちろん、そうした問題もあるに違いないが、実はもっと深刻な問題がある。

それは、「不登校」の子供の多くが、現代日本では一種の「社会適応障害」、あるいは深刻な一種の「発達障害」と言える状況に陥っているということだ。

私の近所でもすでに珍しい話ではなくなっている。学校に行くことができないという子供たちの多くは、教師、友人、環境から生じる問題やプレッシャーに対応する能力を持たない。

私が危惧するのは、「学校に行かない」だけならば大したことではないのだが、こうした子供たちは社会そのものに適応できないのではないだろうか?ということだ。

会社でもどこでも、トラブルや問題は日常で発生する。だが学校のように「行きたくなければいかなくていい」とはならないのが世の中というものだ。これがひいては、結婚という問題にもつながる。

結婚するということは、別の人格を持った「他人」と一緒に暮らすことになるわけで、それこそ意思疎通がうまくいかないことなど珍しい話ではない。ケンカやトラブルなどは日常茶飯事だ。学校に対してでさえ適応障害を起こしている子供たちが、果たして結婚して子供を育てるという困難を多く伴う人生の大事業ができるだろうか?と私は思うのである。

すなわち、この「不登校増加」傾向がこのまま継続していくならば、未婚率はさらに上がることは確実だ。

人口減少の問題は、さらに最悪の状況になるのではないのだろうか?


「いい子」の量産と「不登校」の急増

背景を考えるに、だいたい、現代日本は「監視」が多すぎる。

杓子定規な「いい子」という「規格」があって、それしか学校も社会も親も認めない。

日本型の「いい子」とは、「与えられた価値観」をそのまま受け入れ、教師、親、ひいては上司、為政者にとって「都合のいい子」であることである。この「都合のいい子」を作り上げるために、日本ではまず学校教育の現場が子供たちを「監視」する中で杓子定規を教化する、という方針を90年代から強化してきた。

これは、多分に親や学校や社会、つまり「大人の都合」なのである。

学校からすれば、「いじめ」だののトラブルがあった場合、監督責任を問われることを恐れて「監視」を強化した。

親からすれば、「子どもになにかあったら、大ごとだ」と過剰な過干渉である「監視」を強化することに参画した。周辺の地域コミュニティも監視に参画した。

政府や社会からすれば、こうして「監視」で訓練された子は従順で扱いやすいので「監視」を奨励した。

現代では、小学校の送迎バスも「監視付き」だし、「いい子の規格量産」のための押しつけはすさまじいものがある。

夏休みだというのに、午前中はコミセンで「自主学習」という名の「監視」がなされている。夏休みって、自由に使える時間を過ごす期間ではなかったのか・・・?

子供ら同士で好きなことを約束して遊びに出かけるという光景は、現代ではほぼ見当たらない。「監視」できないことは推奨されないばかりか禁じられてしまう。現代は「禁じられた遊び」だらけ。

遊びに行くにも親の監視付き。

部活動なども、すべて親が同伴だ。監視付き。

子供は否が応でも四六時中「監視」されているので、これに「適応する」となると上目遣いに「監視」を徹底意識する必要が出てくる。

彼氏、彼女ができても親に報告する。

どこへ出かけることも、行先や、行って何をしてきたかまですべて親に報告する。

電車が一日数本しか通らない赤字ローカル線の踏切を横断する際は、誰も観ていなくても電車が来ない時間帯でも自転車から降りて渡る「よい子」たち。(「監視」の亡霊を意識しているのか?)

見知らぬ人間にまで、まるで機械のように、九官鳥のように「挨拶」をするのが現代日本の「いい子」。(AIのほうがよほど賢い。見知らぬ人に「あ、そうそうお母さんから頼まれたんだけど・・・」と慇懃丁重に言われれば、ついて行きそうだ。)

そういう子が、「いい子」と呼ばれる。

学校では、先生の言うことをよく聞いて、試験に出すよ、と言われたことをまる覚えし、学校内での「監視」に対する評判を得れば「いい子」となる。その見返りとして実際に能力があるなし無関係で「推薦」で高校にも大学にも進学できる。

大学では課題で出された本「だけ」を勉強し、素直に授業に出席していれば、理解無理解は無関係でシューカツにも有利だ。「いい子」の大学生は、課題以外の本は読まない。シューカツに関係しないことに興味関心を持ってはならない。そうして社会人になれば、「イエスマン」が理想的である。組織の体制に疑問を持たぬ人間こそが「使える」人間であり、出世できる。なるべく資本の大きい大企業やその系列に就職し、「年収」が多ければ「いい子」である。

・・・さて、お気づきだろうか?日本社会というのは、幼少期から徹底した「監視」のもとに、監視者からの要求に上目遣いで応える「都合のいい子」になるための価値観で「思想統制」を行っているようなものである。

幼少期から「監視」され続けてきた結果として、「型にはまった」「いい子」になることに偏執的な人間が増えていて、自由恋愛はその「いい子」の基準外だから考えない、という大量の若者がいる。

だいたい、自由恋愛や結婚、出産そのものが「いい子」の基準外なのだ。だから、いまだに産休は企業からは歓迎されない。またこの「規格」だと結婚しなくても、子供がいなくても、年収が高ければそれで「いい子」とされることになる。

こうして日本人は奇妙なる「思想統制」の下で、恋したり、愛を語る能力を喪失してしまっているのかもしれない。


「いい子」の規格外は「不登校」

一方で、この「いい子の規格」に適応できない子供たちは、「不登校」という名の「適応障害」となり、家に閉じこもったり、家庭外との接触を極度に恐れて怯える。この子たちは、結婚なども含めて他者との接触に「ある種の障害」を持っており、社会の一員として責務を持ちつつ生きていけるかどうかが危ぶまれる。

事実、年間30万人という膨大な数の不登校の子供たちの多くが、学校という名の「社会」からは規格外とされ、「自己責任」の名のもとに放置されてしまっている。

近所の不登校の子供を見ていると、学校側は不登校になった子供には通学は促さない。

義務教育の履修がどうなろうが、なんと学校はなにも咎めないのだ!

これは、下手に通学を促して、その結果自殺でもされたら学校の責任が問われる。だから日和見を決め込む。いいかげんなものであるが、それが日本社会なのだ。触らぬ神に祟りなし、が国是だとでもいうのか。

不登校の子供と親は、「自己責任」となるのである。たまったものではない。「いい子」の規格を目指すならばサポートがあるが、規格から脱落すれば基本的には社会はサポートせず放置するのが日本社会なのだ。

不登校が発生すると、どうしたらいいのか途方に暮れる親子が多い。現実的に考えて、不登校はすでに深刻な日本の病となってしまっている。不登校を大量に生み出している社会が病んでいるというべきだ。

はっきり言っておきたいが、「不登校」に関しては子どもたちに責任はない。まったくない。「大人」に責任があるのである。政府、学校、親を含めた社会そのものに責任がある。


「いじめ」は、昔からある。だが・・・

「不登校」というと、連動することの多いのが「いじめ」だ。

不登校の原因になる動機としては、人間関係が最も多く、中でも「いじめ」は多数を占めるという。

だが実は「いじめ」などは昔からある。職場でもある。それが人間世界というものだが、現代のようにそれで頻繁に自殺者が出るという背景にあるのは、あまりにも「監視」して「隔離飼育」しすぎたために、子供同士の自然な人間関係があまりにも少なくなっており、ある種の「発達障害」が発生している、と考えたほうが適切のように思う。「いじめ」るほうも、「いじめられる」ほうもである。

よく理解した方がいいと思うのは、「いじめ」が深刻な社会問題化してきたのは、「監視」が学校や地域社会で強くなってからのことだ。子供同士の付き合い、子供同士の人間関係というものが希薄になったことと「いじめ」や「不登校」は相関しているのである。

子供同士の、親が監視しない領域というのは、以前(私の世代で言えば40年前くらい)はかなりあった。そうした中では、「いじめ」もあればいろいろ毎日のようにトラブルはある。

が、しかし子供同士の付き合いの中では親が介入するのは「タブー」としてむしろ煙たがられた。親に言いつけるような子は、「チクリやがったな!」と軽蔑されたものである。だから、いろいろあっても基本的には自分で考え、人間関係のバランスの中で解決をみんな図った。

親や教師が介在しない子供同士の世界は、人間関係の自然な呼吸を覚え、生物として発達していくのに不可欠の領域だったのである。

そうした領域がなくなった社会で、すべて監視される世界に生きる現代の子供たちは、人間関係における間合いや呼吸がわからない。規格以外の出来事が起こると驚くほどまったく対処できないのである。

この子たちが、社会で活動し、結婚し、子供を産み育てるというところまでたどり着くには、非常に多くの困難がある。

なにも対策を取らなかった場合、不登校は今のままでは爆発的に増え続けるだろう。

それは、結婚しない人間がどんどん増えることにも直結する。

そう考える時、現代日本における出生率は、すでに回復しないところまで来てしまっているのかもしれない、などと暗澹とした気持ちになる。


結婚、出産、子育て、家庭、教育が「異常」な状況にあることを「社会全体で考える」ことでしか出生率は回復しない


生物学的に

「少子化対策」だの「子育て支援」だのと政府は長年やっているが、はっきり言ってこれまで行われてきた補助金だの支援金だの、極めて表層的な部分でしかなく、根本的にはなにもしていないのと変わらないと思う。

経済的支援はあったほうがいいけれど、この現状においてはほぼ無意味であることが多すぎる気がする。少子化を食い止めるという意味においては、経済的援助や福祉政策だけでは無理だ。

もっと「生物学的」にやるしかない。

まずは、子供を徹底的に「監視」するという、「鎖をつけた飼い犬」の状態から解放することを考えるべきだろう。

犬は、鎖をつけて縛り付ければ、知能も発達せず、外界との関係性がわからず、不用意に宅配便のドライバーにかみついたり、見知らぬものにおびえて攻撃的になる。

犬を鎖で縛る法律がない世界では、犬はまったく別の生物である。

牧羊犬や橇犬をテレビで見たことがあると思うが、彼らは本来賢い。放し飼いにされている犬は、その大半は人にかみついたりしない。(もちろん、攻撃的で噛みつく犬も中に入るが、そういう犬は檻に入れられるか鎖で繋がれる。)自分で考えて行動する。飼い主との関係性ばかりでなく、周囲の人間たちとの関係性までも理解する能力があるし、牧羊犬などは状況を判断して羊たちを誘導することができる。

私たちホモ・サピエンスは、犬よりもさらに賢い生物ではなかったのか?

近所の大学生の女の子は、彼氏ができれば親に報告、彼氏とお泊り旅行に行くのも親に報告する。

これが現代日本的な「いい子」であるとするならば、なんだか気持ちが悪くなる。

だいたい、それは「自由恋愛」なのだろうか?二十歳やそこらにもなれば、個体としては大人である。親から自立していく年齢だ。監視者から非難されないための「いい子」の現代的恋愛というのはそんなものなのかもしれないが、たとえば結婚した後でも、いちいちなんでも親に報告するのだろうか?

親も親である。こういう子がいる家庭は、基本的に過干渉を幼少期から繰り返してきている。子供の安全安心を、という名目のもと、子供の自立を奪ってきた結果がこれだ。近年、若い子を見ていると、二十歳くらいでも非常に「幼い」子が多い。「若い」のではなく「幼い」。そう、まるで小学生のような幼さが目立つ。お座敷犬のような幼さだ。結婚だの子育てだの、「???」と思うような若者が増えている。

この手の「幼さ」は、「危うさ」でもある。結婚し、子供を授かっても、夜泣きがうるさい、と食事を与えないで殺してしまうケースまで出てきた。幼児を車に放置してパチンコ屋に出かけ、殺してしまうような話も相次いでいる。

生物学的に、これは異常な状況と言わざるを得ない。

年間の出生数が70万人も割り込もうとしている現状は、日本社会が「生物学的」に考えてどこかに大きな間違いがあることを示す。それは学校にもあるだろう。行政にも政策にもあるだろう。

だが、最大の原因は、大多数の日本人が今のような子育てや学校教育の在り方、ひいては「都合のいい子」しか求めなくなっている社会の在り方に対し、「生物学的におかしいのでは?」とは「考えない」ことである。この状況は「おかしい」のだ。まずはその認識をするところからしか糸口はでてこないだろう。

「そんなのは個人の自由だ」

という声が聞こえてきそうだ。だが、あなたが暮らすこの社会は、子供が産まれなければ経済も存続が難しいし、あなたの住む地域コミュニティも存続が難しくなるのは、現実です。

「個人の自由」を標榜するならば、所属する社会の在り方も考えるのでなければ、それは自由とは本来は言わないだろう。自己満足があればすべてよし、というのであれば、それはたんなる独善的な、程度が低すぎるエゴイズムと自由を取り違えているに過ぎないだろう。自由が発揮されるのは社会があってのことである点を度外視した奇妙な「個人の自由」に任せてやってきた結果がこのありさまである。

「自由」についてはここでのテーマではない。語ろうとすればいくらでも言いたいことはあるが、これ以上はここでは触れないことにする。


現状、考えうる方策は・・・

現在の少子化に対し、現在、取れそうな道は二つしかないように思える。

一つが、「生物学的」に人間の発達を考え直すところから、教育や社会を組みなおすこと。もし、婚姻は「自由恋愛によって成立すべきである」という価値観を踏襲するのであれば、自然に異性を求めるような「生物」としての人間の在り方を考えるのでなければ、はっきりいってどんな支援策を追加してもこの現状では無意味である。

もう一つは、・・・「適齢期婚姻法」でも策定して、集団見合い等で「結婚を義務化」することだろう。乱暴に思えるかもしれないが、かつての日本人は大半が見合いで結婚していたことからすると、あながち無茶な法制ではないのかもしれない。日本人の本来的メンタリティからすれば、適合する可能性すらあると私は思う。

そして、「結婚しない」「子どもがいない」「子育てが完了した世代」には、課税する。「結婚しない」>「子どもがいない」>「子育てが完了した世代」の順で税率は高くなるようにする。これも、乱暴のようだが、かつての「家」や「職業世襲」のために婚姻が半ば義務化されていた社会に比べたらよほど理にかなっているだろう。この課税は、子育てや子供のために使う財源にするのだ。

もっといいアイデアがあるかもしれない。だがいずれにせよ、合計特殊出生率の問題は、従来のような政策でどうにかなる次元の話ではすでにないことだけは確かだ。

歴代政府が「やってる感」だけ演出する詭弁に終始して手をこまねいているうちに、人口が数年で1000万人規模の減少をしていく可能性が実際に見えてきている現在、政財界のみならず、地方行政や地域コミュニティ、教育現場、そして親、生涯独身者を含めて真剣に考えざるを得ない時期ではないだろうか。




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