筆者は、このところ10年間、国公立大への受験を目指す、経済的に恵まれない高校生へのボランティア指導を行ってきている。
高いお金を支払って進学塾や予備校などの受験産業に通わなくても、国公立大学へは自力で合格することは十分に可能であることについて書いてみたい。
【野生馬式:大学受験の勉強のやり方論!志望校を探す前に・・・】進学塾や予備校に行かないと大学受験は無理なのか?
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| 受験人口が減っているにもかかわらず、進学塾や予備校へ行く高校生の割合は増えている。しかし、受験産業を利用しないと大学受験は受からない、というのは本当だろうか? |
「塾」を知らない田舎の子
「進学塾」や「予備校」に行かなければ大学受験は難しい、とする考え方は今に始まったものではないだろう。
筆者の東京や神奈川、埼玉、あるいは新潟市の従兄や従姉、従弟、従姉、みんな御大層にも小学校の時から進学塾通いや予備校通いを毎日していた。
都会はそんなものなのかもしれない。
一方で私は、塾というものに行ったことがない。
だいたい、私が育った新潟県の田舎町は、「進学塾」などというものは無かった。
小学校時代は、放課後は遊ぶのに毎日忙しかった。
片道4キロを歩いて登下校していたが、帰り道はそこらじゅうで道草を食いながら帰るので、帰ると日が暮れる。
雪でも降れば、大変だ。
雪合戦やら、ツララ収集やら、さらにやることが増える。
あるとき、大雪の中、忙しく遊んで下校するうちに日が暮れて、祖母が駐在所に捜索願を出したことまであった。
さらに夏休みになれば朝から近所の子供たちと「約束」があって忙しい。
ザリガニを捕まえに行くとか、秘密基地を作るとか、山の頂上まで弁当を持って探検に行くとか、本当にいろいろとやることがあって、「進学塾」というものがあったとしても行っているヒマなどなかったと思う。
しかし、親戚の叔母さんとかは、そんな私のことをいつも小バカにした。
「あなたはいいわねえ、田舎だからどんなに現代の受験が大変なのかなんてわからなくていいんですもの。ホホホ!」だと(あ、田舎をバカにしてるだろ!)。
そんなに塾通いさせていたならば、さぞ自分の息子や娘は東大でも行ってることだろう、と思うが、そんな親族は一人もおらず、偏差値とやらが私より高かったやつは親戚には「誰も」いないのだから皮肉なことだ。
中学生になると、当時の田舎の中学校は、生徒を運動部に入れて鍛えないと「不良になる」とかいうものすごい理屈の元、毎日のように「部活でしごく」ということをテーゼとしていた。
私はバスケ部に入ることになったのだが、放課後から夜半まで、毎日のようにかなりキツイ練習がある。
軍隊に近い。
帰ってくると8時や9時になる。
あまりに疲れて、眠くなるので、夕食を食べて風呂に入ったら、寝る。
朝4時に起きて、英語と数学を予習し、6時前に朝食を食べたら朝練に行く。
夏休みなど、体育館で脱水状態で倒れるまで練習させられる。
水を飲むと持久力がなくなるとかで、休憩時間になるまで水を飲んではならない。
現代では考えられないだろうが、40年以上前の田舎の部活動はそんなものだった。
朝、部活に行こうとすると、憂鬱になった。
こんな状況なのだから、塾など行ってる暇などなかろう。
だが、私は毎日、勉強もわずかな時間を縫ってやっていた。
成績は中学校でも頻繁に一番だった。
そういう生活をしてきた私にとって、「塾」という世界の必要性がよくわからなかった。
勉強とは、基本的に自分が理解しなければ無意味だ。
別に進学塾などにいかなくたって勉強はできる。
大学受験などはなおのことそうだ。
どんなに大手予備校の講習を受けたところで、結局は自分で覚えることを覚え、理解しなかったならば、講習に出てなんとなくわかった気になっていても、そんなものはまったく意味をなさないのである。
この考え方は決して間違っていないと思っている。
受験産業の経験・・・目的と手段
大学受験の経験は、私には役立っていることが多い。
基本的に私は受験産業を信用していないので、自分で試行錯誤する中でどうしたら合格するのかを自分で考えた経験は、その後あらゆることに役立っている。
一年、浪人も経験している。
だが、総じて「誰かがあつらえてくれた受験勉強」はしたことがない。
自分の試行錯誤のなかで培った方法論を持っている。
だから、受験生の指導ができるのである。
唯一の受験産業の経験は、大学受験で失敗し、浪人したときに東京の駿台に「籍を置いた」ことだ。
模試の成績で駿台が東大コースのチケットを出してくれたからだ。
もっとも、途中から行かなくなってしまったが。
駿台に行く、という名目で私は練馬区にあった浪人生だけの寮に住んだ。
この一年は、同じ寮に暮らす多くの仲間たちに恵まれ、正直に言うと生活自体はとても楽しかった。
門限10時の寮を、窓から抜け出して仲間たちと銭湯に行ったり、コンビニに行ったりした。
仲間たちの中には、今でも付き合いがあるやつもいる。
だが、予備校自体は、非常にかったるく、回りくどく、性に合わなかった。
私は団体行動が嫌いな人間なので、教室のいつもの席に座り、というのがイヤだったこともあるが、自分の方法論を持っていた私には、わざわざ練馬の寮からお茶の水の予備校まで往復3時間近くかけて通学し、講師の解答解説を聞く、ということが非常にめんどうくさく、時間の無駄だと思われたのである。
役に立ちそうな授業だけ、三つくらい、隣の席の子にハンバーガーをおごって授業のノートをコピーさせてもらう。
そのために週一回だけお茶の水の駿台に行く。
あとは昼まで寝て、図書館で午後から勉強する。
(こんな調子だったものだから、実は駿台に行く必要はなかった・・・。だが、寮で仲間たちと過ごした一年は、実にかけがえのないものだった。)
夜は、パチンコ屋に入り浸っている仲間たちが帰ってきて、誰かの部屋でみんなタバコを吸いながらくだらない話をして騒ぎ、寮の管理人によく叱られた。
こんな一年だったのだが、私はちゃんと大学には合格した。
皮肉なことだが、駿台の隣の席で、いつもノートをコピーさせてくれた彼とは同じ国立大学を受験しに行き、彼は不合格で私は合格だった。
ちなみに、彼の授業ノートは、非常に丁寧に書かれており、まるで参考書のようだった。
ああいうノートを書くということは、彼は勤勉で有能な人間だったのだと思う。
彼は真面目で、授業は100%すべて出席していた。
しかし、である。
完璧なノートを書いていることと、頭にどれだけ入っているかということは、別問題なのである。
日本の大学受験というのは、頭に入っていることだけを用いて、解答を書いていくというルールである。
どんなに完璧な授業ノートをとっていても、それを本番の受験会場に持っていくことはできない。
むしろ、日本の国公立大学の二次試験は、記憶している知識をどう応用するかが求められている。
いずれ説明するが、浪人時代の私は、過去問を一問あたり時間をたっぷりかけて、「なにも見ないで、どこまで解答できるか?絶対に解答する!」という訓練を勉強の中心にしてやっていた。
とことん、それをやったうえで、解答を照合する。
私がノートに書くのは、欠落している知識だけだ。
したがって、私のノートは、ノートを見せてくれた彼のようなノートではない。
私のノートでは、他者にはまったく役に立たないであろう。
彼を引き合いに出すことは非常に恐縮だが、彼と私の違いは、どこに目的を置き、なにを手段とするか、の認識の違いだったのだと思う。
ここに、進学塾や予備校の罠がある。
予備校などの教材は、私がやったような「サバイバル訓練」のために使用するならば大変意味がある。
しかし、進学塾や予備校に行く生徒の大半は、「有名な先生の講義を受ければ頭が良くなる」と勘違いしている。
講義を受けて完璧でキレイなノートを書けば、頭が良くなると勘違いしているのだ。
だから、小学校から進学塾や予備校に通わせて受験対策などしても、多くの子が大学受験に落ちるのである。
逆に、目的と手段を取り違えないのであれば、進学塾や予備校は不要である。
なぜならば、十分に頭の訓練ができる教材などはごまんとあるからである。
だいたい、教科書と高校の副教材だけでも、やり方さえ間違わなければ、難関大学でさえなければ国公立大に合格するのである。
「本当に頭を良くする」ために受験勉強はすべきだ!
こうした駿台の経験もあるので、私は受験産業の言う「テクニック」だとかも熟知しているし、「受験常識」のウソもよく知っている。
私が指導する子は、進学塾や予備校の講習などに行かなくてもほとんど第一志望に受かる。
ほとんど、国公立単願だ。
当然だ。
私は本人の理解力と、思考能力を鍛えて、頭にあることをひねり出して解答を出す能力を身に着けさせることを指導の核心としている。
基本的に私が手取り足取り問題の解き方を教えるような無意味な指導はしない。
いわゆる予備校型の解答解説講義などは、むしろ「頭を悪くする」ことが多いと知っているからである。
受験勉強のやり方についてはかなり口うるさく言うが、問題の解き方など教えない。
それは、解答に書いてあることだし、それを自分で理解する努力をせず、また理解する能力もない者は、大学で教育を受ける資格などない、というのが私の考え方である。
冷たいようだが、それでいいと思っている。
高等教育は、自分で調べ、考え、判断する能力を養うためのものであるはずだ。
おんぶにだっこでお膳立てされたものをただ聴いているだけ、という思考回路は、本来の高等な学問や優れた頭脳を訓練することとは相いれない。
甘えるんじゃない。
人に教えてもらったって、自分で理解して応用できなければ、勉強など一切は無意味なことなのだ。
自分で理解する気のない弱者が、親切丁寧に教えてもらって、講習や授業を受ければなんとなく理解した気分になる、というあたりが大きな間違いである。
(これは、いつか書こうと思うが、現代の主流になりつつある推薦入学のはらむ危険でもある。)
それは人間をダメにし、使えない、頭の悪い人間を量産するだけの考え方である。
私は、引き受けた生徒の頭をよくしたいのである。
自分で苦労し、考える経験をさせたい。
が、結果としては私がそうして指導した生徒は、数か月で成績もそうだが人間的にも大きく成長する。
それが私がこうした金にもならないボランティアを行う重要な目的なのだ。
野生馬的「いい子」基準は人間的に「かっこいい子」!
私は日本の教育の現状に大きな疑問を抱いている。
現状、日本でおこなわれているような教育では、有能な人間は育たないのではないか?といつも思っている。
私は、「本当に有能な人間」を育てたい。
ガッコや体制にたいして従順で都合の「いい子」を育てる気は毛頭ない。
「センスのいい子」とか、「スピリッツがいい子」とか、「考える能力がある子」とか、「最後まであきらめず戦う子」とか、そういう人間的な意味で「かっこいい」子を育てるのが私の目的なのであり、それは必ずしも大学に行かなくたって可能なことだ。
ただ、大学受験は、推薦などの「曖昧な」基準で進学したってなんの意味もないが、自力で、受験産業に毒されず、自分と対話して学習するというのであれば、上記の野生馬的「かっこいい子」の要素を伸ばすことには役立つと思う。
以下に書くのは、こんな私流の受験指導である。
ちょっとくぎを刺すが、親御さんは基本的に引っ込んでてほしい。
「でも、進学塾に行かないと」とか、「だって予備校じゃないと」とか親御さんの妄想を子供に押し付けるのはやめましょう。
お子さんの人生はお子さんのものだし、だいたいそういうことを言う親御さんの常識の方が間違っている。
どれだけ多くの子が、長年進学塾や予備校に膨大な時間を費やしつつ、大学受験に失敗していることか。
親という字は、「木の上に立って見てるだけ、と書く」と、有名なバスケ指導者が言ってますよ。
親御さんは、スポンサーとしてお子さんにお金を出してあげればそれでいいのです。
もし、これを読む君が現在高校生で、私の方針に賛同できるのであれば、以下は読むに値することだろう。
賛同できない方は進学塾や予備校に行くとよいです。
それだって、目的と手段を取り違えなければ、役には立ちます。
【野生馬式:大学受験の勉強のやり方!志望校を「探す」ところまで!】
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| 大学受験をした若かりしころ、未来世界ではこんなくだらん受験はなくなっているのだろうな、と思った。ところが、高校生の指導をしてみて、あまりにも大学受験は変わっておらず、唖然とした。35年前の教材がそのまま使えるというのも、懐かしい一方で、これでよいのか?と考えてしまう。だが、やり方次第では大学受験の経験は人生には大きく役立つのは確かである。 |
それでは、ここから【野生馬式:大学受験の勉強のやり方講座】を開講することにする。
その1:自分の未来像
私の高校生への受験指導は、まずは質問表を渡し、高校生に自分の未来イメージを書かせるところから始まる。
このことについては、以前、記事を書いている。
ご参照願いたい。
正直に言うと私は、現代のような時代は必ずしも大学に行くことが重要ではないと思っている。
しかし、大学に行くことに目的が見いだせるならば行けばよい、というのが私の方針である。
この記事で書いた質問表は、自分の中にある実現されたがっている可能性を引き出すためのものである。
高校生への質問は、もう一度掲載すると、次のようなものだ。
高校生への質問
1,自分の好きなことを書きなさい。(なんでもOK)
2,自分の大事なものを書きなさい。(人でも物でもなんでも)
3,最近、感動したことを教えてください。(なんでもOK)
4,10年後の自分のイメージを教えてください。
他者に評価されることが目的ではないので、自分で正直なところを書いてみたらどうか。
その上で、高校を卒業した後の自分の道を考えてみることだ。
もちろん、「スポンサー」である親御さんの意向もあるだろう。
自分の夢や希望が、思い通りに行かない場合も当然あるだろう。
だが、それを含めて、様々な条件を考慮し、最後の決定は自分で行わねばならない。
そこに意味がある。
私自身の場合を思い出してみよう。
実は、私は家庭環境が許せば、高校を卒業したら美大を受験して絵を描くか、あるいはラーメン屋になるために修行がしたかった。
残念ながら、私の「スポンサー」である親は、そういう進路を許すような人たちではなかった。
(いまだにこの人たちは、よくわからない。)
しかし、大学に行けば好きに使える時間もある。
絵を描いたり、料理の勉強をしたりできるだろう。
どうせ大学に行くならば、東京に出てみたい。
日本の首都がどんな世界なのか、田舎者の私は興味津々だった。
東京は、どんなキレイな女の子がいるんだろう?
女と同棲ってしてみたいな。
東京には、美術館や映画館がたくさんあるらしい。
東京の大学に行けば、いろいろと絵の勉強や、料理の勉強もできるだろう。
それに、幼少期から東京の親戚には塾もないようなところの「田舎者」とバカにされてきたので、旧帝大以上の大学に合格してやろう、と思った。
ということで、「東大を目指します」と言ったら、「スポンサー」は大喜びして浪人まで許可した。
画家やラーメン屋にはあれほど反対したのに、なんだか拍子抜けだった。
さて、学部を考えた時、まず頭に浮かんだのは、心理学とか考古学とかだった。
私は幼少期から異常に土器や遺跡に関心があった。
そういうのを学ぶとすれば、文学部とか社会学部とか教養学部のあたりだろう。
それで志望先を決めた。
・・・と、私なんかの経緯はそんな感じであった。
まあ、理由はなんでもいいと思う。
ただし、「親がそういうから」、とか、「世間がそういうから」とか、理由を外部に転嫁しないことだ。
自分の進路は、家庭事情から妥協が入ってもいい。
でも自分で決めなさい。
人生も未来も、君のものだ。
この質問表を書いて、高校の成績は悪くないのに、大工の修業を始めた子もいる。
君がどうしたいか?が重要なのであって、親や世間が言うことが重要ではないのだ。
ここでは、まずは自分の中で実現されたがっている「イメージ」が一番重要である。
ユング心理学では、人生は無意識の中にある実現されたがっているイメージの顕現であるそうだ。
ユング博士は、「それに逆らう時、精神は病む」のだと非常に面白いことを言っている。
イメージを実現するためには、障壁はいろいろあるかもしれず、すぐには実現が難しいかもしれない。
しかし、障壁はいずれなんとかしていくこともできる。
とりあえずは、正直な自分の未来イメージを書き出してみることから始めよう。
それがすべての出発点である。
その2:志望校を自分で探す!
志望校を探すとひと言で言っても、自分の「未来イメージ」というものを持った人にだけ、これはできることだ。
自分の未来イメージがない人は、志望校などという高尚なことはそもそも必要すらないのである。
機械的に与えられた教材とカリキュラムを受動的にこなし、偏差値と大学の名前だけで大学を受験するというのがいわゆる大学受験をする生徒の圧倒的多数である。
豊かだった時代の日本では、未来イメージなんてなくてもテキトーになんとかなってきた。
右肩上がりの時代では、テキトーほど食えた。
だが、時代は確実にそうじゃなくなっている。
アイデンティティとしての自我や、目的意識、問題解決能力など主体性がなければ、今後の世界は乗り切っていけない可能性は高い。
だから、自分を最大限に生かせる方向性を考えなければならない。
そのためにまずは「未来イメージ」が重要なのである。
自分がどういう道を選択したいか?について「イメージ」があるならば、それに見合った志望先を「探す」のだ。
私は、「自分で探しなさいよ?」と突き放す。
「どう探せばいいでしょう?」という子には、
「お前、スマホ持ってるだろ?家にはパソコンやタブレットもあるんじゃないのか?道具なんてたくさんあるじゃない?いい年こいてるんだから、どう探すかは、自分で考えてやってみな。自分自身のことなんだから。あと、高校には進路指導室ってあるだろ?そこ行けば、いろんな大学の情報があるぜ」
とだけ言う。
そして、
「探して色々調べれば、学部だの学科だの、なにを教えてるか書いてあるものがあるから、よく探してよく考えろよ?あと、受験の必須科目とかあるから、それもちゃんと調べなさい。一通り調べたら、また話をしような」
と言って突き放す。
大学受験など、たまたま合格したガッコの中から、一番偏差値が高いところに進学すればいい、学部も学科も関係ない、というのが現代の高校、予備校その他の多数派の考え方だ。
だが、それは違う。
自分の興味や関心は、最も重要なことだ。
そこに、未来はある。
法律になにも興味がない人が法学部に行っても、これは幸福とは言えない。
だいたい、人間は興味がないことに対して本当の意味での努力はできない。
それだけではない。
学部とか学科とかガッコのカラーとか、そういうものは、実は重要なのだ。
自分の興味関心で進路を選択する場合、自分が選んだガッコ、学部、学科には、自分と興味関心が近い人がいる可能性が高い。
興味関心が近い者同士が自由に意見をやり取りする場がある可能性が高い。
あなたはご存じかどうか知らないが、最先端の研究というものは、限りなく友人同士の会話に近い。
似たテーマを追求している者同士のセッションというのは、高度な研究の領域になればなるほど重視されている。
無駄話にも見えるそうした「場」は、多くの発想が入り交じり、互いに相手が知らない情報を教え合い、新しいことが生み出される重要な場であることを研究の世界では重視している。
そういう場こそ、発想やアイデアや理論が、足し算ではなく「掛け算」になりうるからだ。
大学というものに価値があるとすれば、本来はそうした興味関心が近い人間に出会う可能性を提供する場だからだ。
さて、それを「自分で探す」。
これまた重要なことだ。
探す方法は、現代ではインターネットもあるから、かなりのことが調査できる。
私が高校生だった時代は、そんなものはなにもなかった。
進路指導室で資料を見たり、旺文社の雑誌で情報を探したりしたものだ。
自分の興味関心に基づいて進学希望先を探すということは、自分の未来を真剣に考えていくための重要な一歩である。
どうやって探すかは、自分のアルゴリズムでやればいい。
世の中を知っていくための登竜門であるとともに、「探す」「調べる」ということを本気で身に着けるための非常にいい機会なのである。
自分の未来を探すのだ。
大学はどこにあるのか?
通えるのか、下宿が必要なのか?
学費はいくらかかるのか?
どんなことを学ぶのか?
雰囲気やカラーはどんな感じなのか?
こういったことを自分で「調べて」「探す」。
家庭の経済状況なども考えてみなければならない。
国公立大学の場合は、家庭の経済状況に応じて学費免除も受けやすい。
遠隔地の子はたいてい寮があるから、下宿代も安く抑えることができる。
学費免除規定や寮なども、自分で調べることに意味がある。
これらを、自分の未来イメージのためにやるのだ。
少なくとも、自分の未来イメージを持っていて、「その1」で質問表を書き出すことができる人にとっては、楽しい事だと思う。
自分の未来を探していく作業なのだから。
さて、一番最後になって構わないのだが、大学受験には入試科目のレギュレーションがあるはずだ。
共通テストはどの科目が必要なのか?
何点くらい必要なのか?
二次試験はどの科目が課せられるのか?
ここまで把握してからが、ようやく受験勉強のスタート地点となる。
ここまで到達するのに、時間は結構かかるだろう。
でも、まずはこれをやることだ。
時間はかけてかまわない。
目的地がないのに船は出せない。
船は、困難を乗り越えて航海の末に目的地に到達する。
航海を続けるには大変な努力がいる。
繰り返し言うが、目的もなく、未来イメージもないものは、本当の努力はできないのだ。
目的地を持たず、航海する船は・・・難破船である。長いことない。沈没します。
その3:受験に必要な科目はなにか?
志望先がイメージがついてきたとして、大学入試には必要な科目というものがある。
たとえば、某国立大学の理系学部の場合、大学入試は次のような二段階選抜となっている。
共通テスト
国語
数学Ⅰ・A
数学Ⅱ・B・C
英語 リーディング リスニング
社会 地歴・公民から一科目選択
理科 物理 化学 生物 地学から二科目選択
情報
二次試験
〇理数重点選抜:数学、理科、外国語の基礎学力、なかでも数学および理科の基礎学力に重点をおいて選抜する。
数学
理科(物理、化学、生物、地学から1科目)
外国語
〇理科重点選抜:理科の広い分野の基礎学力と外国語の基礎学力をはかり、選抜する。
物理、化学、生物、地学から2科目
外国語
〇野外科学志向選抜:理科や数学の広い分野の基礎学力にくわえ、フィールドワークや野外を対象とする自然科学分野に対する意欲と適性を面接ではかり、選抜する。
数学、物理、化学、生物、地学から2科目
面接
さて、ここで最初に問題なのは、そもそもこうした入試必要科目が、君が通学する高校では履修が可能か?という点だ。
いわゆる「進学校」の場合、進み方が速い学校では高校二年生までに一通りの科目の履修を終える仕組みになっていたりするから、あまりこうした問題では悩まなくて済む。
しかし、公立高校では多くの高校で、試験に必要な科目が授業で教えられていなかったり、また高校三年生を終えるとしても、最後まで終わらない、という事態が往々にして発生するのである。
このへんは、日本の学校教育の奇妙なところだ。
大学受験は高校の履修範囲から出題するなどといいつつ、高校が入試に必要な科目の履修を提供できないという矛盾(というか、公務員的怠慢)がここにはある。
余談であるが、私が卒業した公立高校は、進学校を「標榜」していたが、授業の進度は遅く、授業の質はサイテー、授業ではほとんど最後まで終わる科目がなかった。
例えば私は文系だったが、世界史も日本史も、中世くらいまでしか授業が終わらない。
数学も、微分法積分法は最後まで終わらない。
確率統計に至っては授業自体がない。
理科など、半分までしか授業では講じられず、中途半端に終了だった。
いったい、これで大学受験ができるとでもいうのか?
高校側は、勉強せよ、進学実績が最近よくない、とさかんに言ったものだが、自分たちは「趣味の領域」でだらだら授業を行い、最後まで終わる科目がほぼないというのであれば、高校教師というのはいてもいなくてもいいことになるのではないか?
こういう教師の教諭資格ははく奪すべきだ、とさえ当時思ったし、今も思うことがある。
驚いたことに、こうした状況は最近でもあまり変わっていないようである。
私は、数学も理科も社会も、「独学」で入試科目を履修している。
大学生になってから、私のようなケースはないわけではないにせよ、非常に珍しいことに気づいた。
私の行っていた大学は、ほとんどの学生は有名進学校上がりである。
受験指導には万全のシステムを持っていて、私のようなケースはほぼない。
で、私が新潟県で生徒を指導すると、相も変わらずこうした「入試科目が揃わない」高校というのが出てくるのだが、新潟県という地域の高校は、先生方が相も変わらず怠慢なのかもしれない。
だが、しかしである。
いいではないか。
学問とは、本来は人が教えてくれることを覚えることではないのだ。
学問とは、自分の知りたいことや身に着けたいことを、どのように身に着けていくかを考えることなのだ。
そして、自分で考えて判断していく力を養うことだ。
君の行っている高校が、私の卒業した高校のように教師たちの「怠慢」に支配されたところだとすると、教師たちの無能や怠慢や無責任は否定されるものではない。
月給泥棒の典型である。
教育委員会の在り方自体が問われよう。
しかし、君は、「独学」という学問では最も大切な経験を、高校時代からすることになる!
これ自体は、素晴らしい経験なのだ!
今回は、ここまで。
次回から、高校三年生のための大学受験指導を具体的に書いてみたいと思う。
それは、「独学」の指導でもある!
あらゆることにきっと役立つはずである。
次回:共通テストの話、日本語能力の話を掲載する。
【野生馬式:大学受験の勉強のやり方講座(2)共通テスト必須科目】受験の基礎を考える!


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